ウツ10年超え日記

うつを発症して10年を超えました。 「緋寒 桜子(ひかん さくらこ)」と申します。 2019年3月30日という、中途半端な日に、ふと、自分の「ウツ体験」をブログに書いてみようと思い立ちました。

2010年3月10日(水) ただ泳ぎ続けることが人生なのかもしれない

まだぐすぐすしている。

何か、波がチャプチャプしていて、ふいにうわ~っと大波がやってきて、だあ~って悲しくなって、涙がどお~っと出て、しばらく(数分)すると、すぅ~っと波が引いて、悲しくなくなる、って感じ。ふしぎ。

 

もちろん、通底にはいろいろな考えが渦巻いているんだけど、「泣きたい」っていう衝動は、数分おきに数分間続いては、だんだん波が小幅になって、収束していくって感じ。

波が引いてるときは、「あれ? 何で私、今泣いてるの?」ってくらい平静な気持ちになる。

それでまた少しすると、うわ~~ってなるのだ。

 

 

生きることって、広い海を泳ぐことに似ているかな。

岸に向かって一生懸命、泳いでいるけど、ほんとうに、その方向に岸があるのか?

ほんとうに、岸に近づいているか?

潮に流されて、思っているのと違う方向に流されていないか。

むしろ出発点の方へ押し戻されていないか。

一緒に泳いでいると思っていた人が、実は全然ちがう岸辺を目指しているかもしれない。

前や後ろを泳いでいる人がいると思っていたら、実はただの流木で、人なんかじゃなかった。

でも、誰も止まれない。

泳ぐのをやめたら、ぶくぶくと沈んでしまう。

岸に泳ぎ着くことがゴールだと思っていたけど、実は、ただ泳ぎ続けることが人生なのかもしれない。

水が冷たくて凍えそうだったり、波が高くて水をかぶって沈みそうだったり、サメが襲ってきて足を食われちゃったり、泳ぐのが困難になっても、それでも泳ぎ続けるしかない。

今まで私が泳いでいた海は、地球全体、人類全体から見ればそうとう穏やかで、泳ぎやすい海だったかも。

もっと厳しい海にいる人は、どうやって泳ぎ続けているのだろう。

「岸はある」と思える人はしあわせ。

一瞬でも「岸にたどりついた」と思えたことがある人は幸運。

岸なんか無かった、全然近づいていなかったと分かってしまっても、それでも泳ぎ続けられるんだろう。

ほとんどの人は、ひたすら泳ぎ続けて、疲れ果てて、水の底に沈んでいくだけ。

どうせ最後は水底に沈んでしまうなら、どうせどこにもたどり着けないなら、なぜ泳ぎ続けるんだろう。

苦しいのに。

いま、この瞬間の苦しさをこらえて泳ぎ続ければ、そのうち岸にたどり着いて、ラクになれるって思っていれば、泳ぎ続けられる。

でも、いくら泳いでもどこにも着かない、って知ってしまったら、それでも泳ぎ続けられるのかな。

泳ぐのをやめちゃいけないのかな。