ウツ10年超え日記

うつを発症して10年を超えました。 「緋寒 桜子(ひかん さくらこ)」と申します。 2019年3月30日という、中途半端な日に、ふと、自分の「ウツ体験」をブログに書いてみようと思い立ちました。

2008年8月30日 寝付けない、目が覚めてしまう

なんだかばくぜんと不安。
このところ、日によってよく眠れない。
なかなか寝つけなかったり、一度目が覚めてしまうと、再び眠るのに時間がかかったり。
まあ、時間的にはけっこう寝てるはずと思うんだけど。
あと昼間、ストレスが強かったり、特に人と話をしたりしているとき、胸が苦しいような感じがしたりする。
このところのストレスを考えれば、調子が出ないのは当然だ。不安になって、うつっぽくなって当然と思う。

自分のことだけでなく、日本、いや地球の行く末へのばくぜんとした不安。自分の将来というか、老後への不安。
職場の将来への不安。
それは、何となく描いてきたバラ色のイメージが、実現できないのでは、というところからくる。
「生きるということが、『苦しむこと』である」ということから、目をそらしてきたけど、暖かい、いごこちのよい中で、それがずっとは続かないのでは、という不安なのでは。

具体的に考えてるのは、Tさんも辞めてしまうのではないかということと、Mさんの後任を求人募集しているんだけど、応募が全然なくて決まらないかも、という不安。
さらにNさんも辞めてしまうのではないか、若手の人がもっと辞めてしまうのではないか、という、怯えみたいなもの。

求人についての反応が鈍い。
今回の求人で、もしも応募がなかったとしても、お金をかければ何とかなるだろうし、年齢が少し上の人でも良いと思っているんだから、必ず人は見つかるだろうと、自分に言い聞かせてる。今までだって、何とかはなってきたんだから。いざとなれば、外注だってできる。それにまだIさんも、Gさんも、Bさんもいる。強力な人たちなんだから、多少ごたごたしても、何とかなるだろう。Tさんの代わりだって、探せばすぐ見つかるだろう。

だいたい、もともと不安を感じやすい性格なんだ。
何となく怖い感じ、恐れ、不安。そういうものにとらわれやすい。
映画とか小説とかでも、ドキドキ、ハラハラするものは苦手だし。

実際に将来、自分たちが60代、70代になるころ、日本はどうなっているのか。年金なんてもらえなくなるのでは。
でも、日本全体がそうなってしまったら、それはそれで耐えられそうな気もする。
相対的なものなのだろうか。
自分の周りの知り合いなどがみんな、海外旅行に行ったり、趣味を極めたり、のんびりしているのに、自分たちだけが貧しかったらみじめだろうなと思う。
でもお金があるからって、TTさんは幸せなのかな。家族はみな亡くなってしまって、豪華な老人ホームにひとり入って、ホームの職員に対して疑心暗鬼になっている。
それとも、お金がなかったらもっと悲惨なので、よかったのかな。



どうして不安になるのかな。
「不安 = 将来の困難へのおそれ」
将来、なにか困難なことが起こりそうだから、今のうちにそれを回避、予防したいと、いろいろ考えてしまう。それで、まあ、アドレナリンが出るというか、困難に備えようと、心(脳)と体が緊張し、対応しようとする。だから眠れなくなるのでは。
「眠っている場合じゃない!」って。

考えて何とかなるならいいけど、考えてもどうしようもないことも多い。だけど、「あのとき、ああすればよかった」とか考えて、反省して、次の対策に役立てたいと思うから、くよくよ考えるんだよね。今はどうしようもなくても、今いろいろ考えておけば、将来、役にたつかも、と思ってしまうんだな。
ある程度は、過去も振り返らないと、何の反省も改善もない人になっちゃう。
でもあまり反省ばかりしても、あまり先のことに備えてばかりでも、今がつらいのに。

私が職場を背負っているわけでもないのに、なんでこんなに心配しなければならないの。つぶれるならつぶれればいいし、職場の人たちへの愛着もほとんどわかないし、せいぜい、GさんとかBさんとかくらいかな、気になるといっても。あとVさんとかDさんとかSさんとか、何人かの人には恩義を感じないでもないけど。

まあできる範囲で、無理はしないで、できるだけのことをやろう。ときどき楽しい瞬間もあるのだし。

私はいま、「総務部長」という役柄を演じているだけ。役に入り込みすぎているかも。
Mさんが辞めることも、それによる困難よりも、「辞める =私のことがキライだから」と、自分への評価のように感じてしまうから、感情的につらいんだろう。

と、このように、理性で考えれば、こんなに不安に思う必要はないはずなのに、実際には眠れない、ってことが何度かあった。
うつに関する本をいろいろ読んだり、こうやって吐き出しノートに書きだしてみても、やっぱり眠れない、という事実があって、それが不安。
うつになっちゃうんじゃないか、すでにもう、うつなんじゃないか。
何もないのに涙がこみあげてきてしまうとか。

Mさんがいなくなる日まで、まだ1か月半もある。その間ずっと、繰り返し、このストレスが続くんだろう。いっそ、早く目の前から消えてくれ、という気もする。
いっぽう、明日また、だれかから「辞める」とか言われるんじゃないか、と思うと、職場に行くのが憂うつだ。
あまり戦力になっていない人であっても、辞められるということがすごいストレス。
辞める方にやむをえない事情(家族とかの)があるならよいのだが、そうでないと「自分が否定された」気になる。「辞める =私のことがキライ、私の行動に批判がある」という風に受け止めてしまっている。
ダメだと思われたくない。嫌なヤツだと思われたくない。
相手に説明したい、わかってほしい、事情をよく説明すれば、翻意してくれるのではないかと期待してしまう。理性では、「そんなことしても無駄」とわかっているけど、感情の部分では「説明すればわかってくれるんでは」と期待してしまっている。

そうだ、私は、自分のことを「わかってほしい」のだな。
説明したい。弁解したい。みんなから好かれ、認められ、尊重され、大事にされ、承認されたい。

どんな相手からも承認されたい。それがかなわないことが、苦しい。

それって、自分で自分を認めてないからかな? 他人からの承認が欲しいっていうのは?
う~ん、どうだろう。
自分では、自分のことがけっこう好きだし、能力もあると思っている、と思うんだけどな。
でも、他のだれからも全く承認がなくても平気かな?というと、それはどうだろう。そこまで強くはないかも。

これからしばらくは、「部下」という人に、こんな風に、おく病な気持ちをいだいてしまいそうだ。部下なんか、もう持ちたくない。怖い。