ウツ10年超え日記

うつを発症して10年を超えました。 「緋寒 桜子(ひかん さくらこ)」と申します。 2019年3月30日という、中途半端な日に、ふと、自分の「ウツ体験」をブログに書いてみようと思い立ちました。

2009年10月13日(火) ウツになって1年が過ぎ、自分自身については順調だけど、ダンナのことが心配

1年が過ぎた。

自分自身については順調だと思う。

さいきんの心配ごとは、もっぱらダンナのこと。

先週あたりから、「泣きたいような気持になる」ということで、本格的にわるくなり始めているのでは。

でも本人は「そんなに悪いかな?」、「家にいると、かえって気が滅入る」、「仕事していた方がラク」と言って、今のところ、仕事を減らすとか、会社を休むとかはあまり気がすすまないようだ。新しく仕事を引き受けたりしていて、やりたい仕事ではあるらしいけど、すごく心配。

自分の経験から、会社の側から「仕事を減らす」というのはすごく難しい。本人のモチベーションに悪影響が出てしまうのが怖いので。なので、本人が自分で、「仕事を減らしてほしい」と申し出るしかない。

と、さんざん言ったのだが、ダンナは納得できないようだ。

私も自分の経験が絶対正しいとは思わないけど、ケアする側、される側の両方を経験しているし、複数の人の様々なパターンをケアしてきているし、とにかく私に去年のような辛い日々を、ダンナには味わせたくないので、ついいろいろと言ってしまう。

それがまた、ダンナのストレスになるのだが、自分も黙っているのも余計ストレスで、また息苦しい感じ、胸がバクバクする感じが戻ってきてしまって、去年の再来のよう。

自分が、せっかくここまで元気になってきたのに、また、1年前の状態に戻ってしまうのではないかと、それも心配でたまらない。

 

「なるようになる」、「心配してもしょうがない」とはわかっている。

でも、あきらめて受け入れられるまえに、転げまわりたいような苦しい時期があるかも。ダンナがそういう苦しい目にあったらかわいそう。そんな目に会わせたくない、とどうしても思ってしまって、ぐるぐる、ぐるぐる。苦しい。

 

自分のことは、とりあえず、当分このままでいいかなあと思う。

あまり早く復帰すると、去年も年度の前半はタッチしていたし、今年も年度途中からタッチしてしまうことになり、中途半端にかかわることになってしまって、気持ちが片づかない気がする。

何より、まだ週2回、数時間のペースなのに、そんなにすぐにフルで行けるようにはならない気がする。とりあえず、時間はこのままで職場に行く回数を増やすか、それとも1日当たりの時間を増やす方がいいのかな?

 

このうつ病って、わりと簡単に「最悪の状態」になって今う、という気がする。Kさんしかり、KJさんしかり、自分もしかり。ダンナのことが心配でたまらないし、覚悟もできない。

こういうときが一番苦しい。

行くとこまで行ってしまえば、「底つき」してしまえば、あとは楽なんだけど。ハラハラしながら、何もできずに見守るのがいちばん辛い。

 

ああ、辛いよー、辛いよー。

 

気持ちもずっと晴れない。なんか、暗雲が、空のむこうの方に見えていて、どんどん近づいてくるような感じ。何をしていても憂うつ。

Kさんが悪くなり始めたころのような感じ。

「大丈夫、きっとすぐ元気になる」なあんて、いくら自分に言い聞かせても、カラ元気にすぎなかった。

最近少し、自分については明るくなってきたのに。

人生って、辛いことの連続だなーー。

 

でも、心配すればキリがない。

お姉ちゃんやMHちゃんが病気になったり、勤め先が倒産するかもしれない。パパやママがガンになったり、卒中で寝たきりになったりするかもしれない。SちゃんやA君が交通事故にあったり、不良で補導されたり、引きこもりになったりするかもしれない。通り魔に刺されたり、ホームから落ちて電車にひかれるかもしれない。うちとか実家が火事になるかもしれない。大地震がくるかもしれない。誰かが詐欺にあって、大金をだまし取られるかもしれない。

心配しだせばキリがないし、そうなったらそうなったで、できる範囲で対応するしかないし、防ぎようもない。

 

それでも心配になってしまうのが人間というもの。

「心配する」というのは、ようするに、「事前に何かの手をうてば、そのことを防ぐとか、影響を軽減できるんじゃないか」と思うこと。

「いまなら、まだ、何か対応策をとれるかもしれない」と思うから、じりじりする。

悲観的に先を読んでしまうから、心配になる。

 

不安なことのタネはなくならないし、最後は「死」という究極の不安が待っている。

それに備えるのが人生、ではないはずなんだけど。

 

ヒト(人類)の多様性として、悲観的な心配性の人が一定数生まれるようになっている。楽観的な人ばかりでは、無謀なことをしたり災害に備えたりがなくて全滅してしまうリスクがある。かといって悲観的な人ばかりでも、新しいことにチャレンジできずに進歩がなくなり、やはり変化に対応できず全滅してしまうリスクがある。

人種とか地域によって差はあるけれど、どの人類のグループにも、悲観的な人と楽観的な人がそれぞれ一定数ずつ生まれるようになっている。

私は典型的な「悲観的タイプ」だと思う。

そういう人は、「根暗」だったり「ネガティブ」だったりするけど、そういう人がいるから、防災対策も進歩していくし、事故を防いでより安全になっていったりする。未来に備えていろいろ準備したり、間違いを防ぐためのチェックシステムが整備されたりする。人類にとって、必要な資質なんだけど、本人にとっては生きにくい、辛いものだ。

 

ときどき楽観的な人がうらやましくなる。

楽観的な人って、もともと楽観的で、怖いもの知らず。無茶もするし、無謀なこともするので、痛いめにあったりして、早死にしたりするかも。でも、普段の生活では、あまり不安に感じることはないだろう。

 

まあ、結局、悲観的だろうが、楽観的だろうが、どっちもどっちだし、たぶん遺伝、体質、気質、DNA的なものに支配されてそうなるだけなので、ムリに楽観的になろうとしたりしてもできない、と思う。

ただ、むやみに心配することは、自分が辛いだけだから、自分にとってなるべくラクに生きられるように、あまり過度の心配はしないように心がけたい。

できる範囲で準備、応対する。

人事を尽くして天命を待つ。

わかってはいるけど、これが難しい。

 

まったく、人生というのはいろいろムツカシーなー。

ダンナが目の前で、どんよりしているのを見ることが、嫌なんだな、自分が。自分が嫌なものを目にしたくないという、自己中心的な感情なんだな。

 

しかも、自分では、ダンナがどんよりしていることを解決したり、防いだりできない。

自分の「どんより」でさえ、思うようにならないのに、まして他人の「どんより」なんてどうしようもない。

自分の「どんより」なら、まだ対処のしようもあるけど、他人の「どんより」は手の出しようがない。対処のしようがない。

対処しようとすること自体が、ストレス。じりじりする。

 

う~ん。同じことを書いているような。

ぐるぐる、ぐるぐる。

気持ちが晴れない。

自分の去年の今頃のことに比べれば、数段マシだけど、「これから悪くなるのでは」ということが怖いんだな。

落ちるとこまで落ちて、あとは上がるだけ、少なくともこれ以上落ちることはない、と思えるようになればラクなんだけど。

ダンナが飲み始めているパキシルが、1~2カ月くらいで効いてくればいいんだけど、その間ずっと、ジリジリが続きそう。

はあーーーー。

 

職場の話を聞きたくない。

(a)「全然大丈夫よ~。みんな元気でバリバリやっているよ」

 →自分なんかいらない。自分のやっていたことはたいして役立っていなかった

 

(b)緋寒桜さんがいなくて大変。早く良くなって戻ってきて。

 →みんなに迷惑をかけている。自分のせいで、ほかにも具合が悪くなっている人がいるのでは。もう前のようには期待されてもできないのに。

 

(a)、(b)のどちらであっても辛い。だから何も聞きたくない。いい話も悪い話も両方とも辛い。みんなの様子を聞きたくない。見たくない。

何も感じなくなれるぐらいに時間と距離を置かないと戻れない感じ。

「あの人、だれ?」とか言われるくらいになりたい。

 

やっぱり職場に行ってる方が、ダンナのことがまぎれていいかな? ずっと二人で一緒にいるのも疲れるよね。

書き始めよりも少しラクな気持ちになってきた気がする。